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第十六回
初出公開:1999/9/10、最終更新日:1999/9/10
「アルマゲドン」という映画がある。ブルース・ウィリス主演のSF映画で、馬鹿馬鹿しくて結構面白い。
地球を救うために、宇宙からやってくる巨大隕石を破壊する男達を描く映画なのだが、登場人物の中に”世界一の天才”がでてくる。天才といえばレオナルドダビンチとかアインシュタインとか、憧れの対象になるものだが”世界一”の冠がついた瞬間、とても胡散臭くかんじられるから不思議だ。
その世界一の天才が、この隕石を破壊するには隕石内部に原子爆弾を仕掛けるしかないと提言する。すると他の科学者は、隕石外部からの攻撃でも十分衝突を回避できるという提言をおこなう。その時の世界一の天才の反論のしかたが素晴らしい。「彼とは大学時代同級生だったが、奴は勉強ができないやつだった。俺は首席だ」とか言う。そう言う問題か?
第一、天才とは超越した人間を語る言葉なのであって、世界何位かは問題になっていない。例えば、先のダビンチとアインシュタインが同時代を生きたとしてどちらが世界一かを語るのはナンセンスだろう。
天才と呼ばれる人は多いが、現代において、天才と言って想像される人物像はどんなものだろうか。まず、世界の一流大学を首席で卒業しなければいけないだろう。言葉は7ヶ国語くらいは操ってほしい。なおかつ、コンピュータを手足のように扱わないと行けない。円周率は1万桁くらいは暗記しているであろう。チェスをすればビックブルーより強…。だんだん、自分の想像力の貧困さを見せているだけに思えてきた。コンピュータを使えないと駄目なんて、まるで現代サラリーマン必須スキルを語ってるみたいだ。このように、天才と呼ばれるためのハードルは年々上がっているように思える。情報化時代ということなんだろう。
話題を変えるが、フィクション、ノンフィクション取り混ぜて、最高の天才は、「宇宙戦艦ヤマト」の技術担当の真田さんであろう。どんなピンチになろうとも「こんなこともあろうかと」と言って、すべて準備が済んでいる。天才たるもの未来予知くらいできないといけないということか…。天才業界もなかなか厳しいね。
第十七回
1999/9/12、最終更新日:1999/9/12
「スターウォーズ」はすごく好きな映画のひとつなのだが、ひとつだけ多いに気に入らない部分がある。それは、オープニング時に状況説明を文字とナレーションでおこなうことだ。あの宇宙空間を背景に文字が流れていくやつ。映画を見に来て、文字を読まされたらガッカリする。できれば、画面と台詞で説明してほしいというのが人情ってやつだろう。
「デューン」なんかは、良く似た状況でナレーション役の説明がはいる。ナレーション役の登場人物の回想によって物語がすすむといった趣向だ。これもそうとう苦しいがなんとかOKの範囲だ。つらいけども。
これはもうスチュエーションコメディーかコントの世界だ。特殊な環境を設定するのはよいが、その状況を説明するための手間を惜しもうとする。これは反則だろう。
場面を字で説明してしまう非常に悪い癖を、最もやってしまうのは、実は日本の映画、ドラマだとおもう。場面説明にいとも簡単に文字をいれてしまうのだ。例えば「東京」とか「青函連絡船」とか「石川県合同庁舎」とか「特別捜査官」とか。潜水艦を写しといて「潜水艦」とかわかっとるわー。
どうしても伝えたいのなら、看板などを使ってうまく処理してもらいたいもんだが、ストーリー関係上知る必要がない場面にも説明がはいったりするからよけい腹が立つ。ストーリー展開の中でそれとなくそこがどこかを伝えるのがシナリオや監督の腕だと思うが、それを初めから放棄してしまっている。全く美しくない。
われわれがよっぽど馬鹿と思われているのか、面倒くさいのが嫌な一心なのか、悲しくなる。
第十八回
初出公開:1999/9/13、最終更新日: 1999/9/13
違ったバックグランドで育った人間同士が出会うことで起こるユーモアを描いた作品には「クロコダイルダンディー」や「ブッシュマン」がある。ただ、その文化の違いがユーモアですめばいいが、そこに大きな誤解が生じると悲しみや差別が生まれてしまう。
現代では、インターネットに代表される情報技術の進歩が、その手の誤解をかなり食い止めてると思う。それは,良いことなんだけども、一方でさびしい気もする。
情報先進国と言える日本とアメリカでさえ、たくさんのギャップがある。ショー・コスギの忍者ドラマにでてくる日本風俗への誤解には笑わせてもらったし、日本をあれだけバッシングしておいて日本がどこにあるか知っている人が少ないなんて話を聞いてあきれたりしたものだ。
そんな楽しみが奪われたのは少し残念かもしれない。勘違いしてほしくないのは、わたしが楽しいと思う状況は、誤解の段階であって、差別の段階ではないということだ。
さて「仮面ライダーアマゾン」という番組をご存知だろうか。これは石ノ森章太郎先生原作の子供向けドラマで「仮面ライダーシリーズ」の4作目にあたる。子供のころは楽しみに見ていたものだが、思い返すにこれがまた実にヤバイ。今であれば、放送禁止間違いなしであろう。
仮面ライダーに変身する主人公は、幼い頃、アマゾンで遭難。長らく行方不明になっていたが、アマゾンで発生した巨悪に立ち向かうため、村の長老によって仮面ライダーに改造された。そして、その巨悪を追って日本に帰ってくる。子供向けなので荒唐無稽なストーリーだが、それはとりあえず良しだ。
まずそのコスチュームがまずい。変身する前、主人公は腰布以外は裸だ。そんな人がいたら速攻で警察のお世話だろう。また、仮面ライダーなので、モーターバイクに乗らないといけないのだが、無免許であったに違いない。だって日本語が使えないのだから。その上、ブラジルの公用語であるスペイン語が使えるわけでもない。彼が話すのはただ一語「アマゾン」それだけである。
名前を聞かれても「アマゾン」お腹が空いたか聞いても「アマゾン」これはもう、アマゾンの人を人間扱いしていないといってもいい。アマゾン在住の人に聞いても「そんな奴イね-よ」の一言であろう。
しかし、当時の子供達はアマゾンの人はみんなそんな人だと思ったに違いない。もしかしたら、大人ですらそうだったかも知れない。そこでは基本的人権など大気圏外まで吹っとんでいる。
ここまでギャップがあるとギャグとして楽しいが、本当に無知は罪だと思う。自分は馬鹿だったんだなと振り返ったりする。
第十九回
初出公開: 1999/9/16 最終更新日: 1999/9/16
司馬遼太郎さんの名著「坂の上の雲」は日露戦争を描いた小説だが、その中に「旧日本陸軍には兵站の概念がなかった」という描写がある。兵站というのは補給運用のことを言う。
島国で育った日本人には補給線が伸びきる広大な大地での戦闘を理解できなった。近代戦はまさに物量の戦いで、兵隊、武器、弾薬をどれだけ前線に注ぎ込めるかで勝敗が決する。私の祖父は第二次大戦に参加しているが、アメリカとの戦闘でこちらが1発撃つ間に、1000発くらい撃ち込まれたというから、日本が負けるわけである。
さて「宇宙戦艦ヤマト」のガミラス帝国は14万8000光年の距離を押し渡って地球と戦争をはじめたわけであるがどのような兵站を考えていたのだろうか。補給線は伸びきっていたことであろう。なんせ14万8000光年の距離である。しかも、戦力の集中は戦理でも基本中の基本なのだか、この超広大な汎土に分散しきった戦線構築を行なっている。 これでは、勝てる戦も勝てない。しかも14万8000光年もの行軍の後に戦闘をはじめるような艦隊は、旧ロシア海軍バルチック艦隊の悲劇を連想させる。
その一方、人類が乗り組む宇宙戦艦ヤマトにも補給は、ない。食料、武器、弾薬、資源は現地調達ということらしい。この兵站を無視しぬいた戦艦の乗組員はすべて日本人である。特攻精神を持つ日本人にしかそんな戦略は理解できなかったのであろう。
「宇宙戦艦ヤマト」には兵站の描写は一切ない。日露戦争と同じく奇跡的にもヤマトは勝利をおさめるのだが、現実には、こんな奇跡は日露戦争で終わりと思った方が良い。物語の中でさえ兵站を理解できない日本人は本当に戦争向いてないから止めましょう。と、いうことだ。まあ、補給を受けまくるヤマトの人気が上がるとは思えないけど。
第二十回
初出公開: 1999/9/17 最終更新日: 1999/9/17
たくさんモノを持っている人は羨ましがられるものなのだろうが、私は荷物の少ない人に憧れがある。映画「ユーガットメール」で、愛人と分かれた男性がトランク2つ3つで家出してくるシーンが描かれるが、これこそ格好イイと感じるのだ。
たとえ、そこまでいかなくても、車一台に入るだけの荷物しか持たないというのを理想にしている。ところが、現状はまるで逆。テレビ、ビデオ、CD、パソコン、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、もろもろの家具、などなど。ビデオは二台もある。内一台はコンセントすら入れていないが、捨てる思い切りがつかない。まだ動くし…、などと思い切れないうちに、それに留まらず、新しい衣類、本、雑誌、CDなどはどんどん増殖して空間を侵食していく。
ポトラッチという言葉をご存知だろうか?これはインディアンにみられる儀礼で、自分を破滅させかねないほどの贈り物を贈ったり、相手の目前でそのような財を破壊したりする。つまり自ら一文無しになろうとするかのような行為をおこなうのだ。これは集落の財力を誇示する為と説明されるが、私は違うと思う。
人間にとって自分の周りにモノが増えすぎるというのはストレスなのではないかと思う。モノが増えるというのは、安定と同義なのだろうが、人は同時にゆらぎをも求めるらしい。
難しげな話を続けてきたが、結局なにが言いたいのかというと、だれかに私のかわりに持ち物を捨ててほしい。ということである。自分では捨ててしまいたいが、どうしても捨てきらないものがたくさんある。これらが知らない間にでもすべてなくなっていたら、仕方ないと思えるのと同時にえらくすっきりするような気がする。
そこで、あなたに変わって捨てきれないものを捨てて差し上げます。というビジネスはどうだろう。案外流行りそうだ、私も申し込みたいと思う。