第一回
初出公開:1999/8/17 最終更新日:2003/4/18
まずは、男が五体バラバラで登場する。 超兵器の秘密を握ると思われる主人公は、 頭、体、腕、足に解体されたまま生きるという責め苦を受けている。 この究極の窮地のうちに超能力を発現させた彼は、 1年ぶりの尋問に訪れた敵の眼前で自分の五体を合体再生し、 この不幸な再会を果たした敵を殺す。 そして、家族を殺し、自分を一度は解体した敵の黒幕に宣戦布告する。 真の敵は、神の軍団を名乗る超人集団である。
以上は、石川賢の初期の傑作「5000光年の虎」のあらすじである。 現在では絶対に誌面に載らないであろう残酷ストーリー。 しかも、主人公の名前が最終回最後のコマまで判明しないという滅茶苦茶さを売りにする素晴らしいマンガである。 いや、漢(オトコ)らしいというべきか。主人公の名前なんてストーリーの面白さと何の関係もないもんな。
「俺は虎だ!」
「虎」は最後のコマで上のように名乗りを上げる。 この部分で、地球人ではない彼がなぜ地球の猛獣の名前を名乗るのか。 しかもそれってニックネームなのか。 などと突込みどころが湧き上がってくるが、 あまりの勢いに「スゲェ!」としか感想がでてこない。
石川賢は、1948年栃木県生まれ。 1969年には、尊敬していた永井豪が率いるダイナミックプロに参加した。 1970年には「それいけコンバット隊」でデビュー。代表作には「虚無戦史」「魔獣戦線」「ゲッターロボ」などがある。
彼の作風の特徴といえば、 アクションを表現し尽くすダイナミックな作画。 ぐちゃぐちゃ、非シントメリーを基本とする独特の石川デザインと、それを裏付ける精密な描写力。 ヒトを人と思わない、手足首が千切れ飛ぶのが当たり前の残酷ストーリー。 必要以上に遠大なというより、どんどんエスカレートしていく設定。
実はこれらの作風は、師匠である永井豪そのものなのである。 しかも、永井豪のアシスタントであるがゆえに絵柄もそっくり(絵は石川賢のほうが上手いと思う)となると、 石川賢の名前がクレジットされた作品であっても、 彼の独自性をマーケットにアピールするのは難しかったようだ。 それゆえ、彼ほどの才能をもってしてもメジャーになりきれなかったし、 永井豪のエピゴーネンというそしりも免れ得なかった。 当時彼を認めていたのは一部の目利き達だけであったろう。
私が、石川賢を永井豪のアシスタントあるいはゴーストライターではなく、一人の作家として認識したのは、 1987年連載開始の「虚無戦記MIROKU」からであった。
この作品は豊臣秀吉死後の混乱期を舞台にした、SF忍者モノである。 突如超能力に目覚めた真田幸村率いる真田十勇士と、 特異な伝統と血脈を継けついだ九龍忍軍の忍法合戦が中心となったストーリーで、 石川賢作品群のなかでもかなりの傑作といってもよい。
主人公、弥勒の必殺剣「九龍覇剣 虚空斬破」がまた凄い。 空間を斬って敵にぶつけるというデタラメな必殺技である。 もちろんこの”デタラメ”というのはこれは誉め言葉で、このデタラメさは彼の武器のひとつである。 敵味方入り乱れての肉弾戦は、 当然のように一般市民を巻き込み死体の山を築き、 かと思えば油断している間に神々の戦いへと話の舞台が移っていたりする。
石川賢の作品は、設定のふろしきを広げるだけ広げてそのまま終了というケースが多いが、 今作は幸運にも掲載誌にも恵まれ、 一応物語が完結している。 ちなみに初期の傑作、「魔獣戦線」「5000光年の虎」などは掲載誌の廃刊で、残念な終了の仕方をしている。
石川賢は、今でこそメジャーまんが家のひとりだが、 その道程は楽なものではなかった。 ようやく時代が彼に追いついた。 今は、ひとつでも多くの作品を読ませてほしいと思う。 多少物語が破綻してようが全然OK。 要望があるとしたら、本当に仕事を選ばない氏に少しは仕事を選んでほしいというくらいだろうか。 マイナー時代の恐怖が抜けてないのかな。 濫造も魅力のひとつではあるのだけれど。
第二回
初出公開:1999/8/18 最終更新日:2002/6/22
現実の世界はいつも平面で、退屈に思えてしまう。 その平面の世界にしても多様な物事があるとわかってはいる。 が、やはり退屈なのだ。
怖い話に接すると、ゾッとするとともにホッとする自分がいる。 偉い人は「怪力乱神を語るな」というが、怖い話というのは強力な磁力で人々を魅了する。 怖い話がダメという人でも、耳を塞ぎながら聞こうとする。 これではまるで麻薬である。
いないいないばぁという遊びがある。 赤ん坊が非常に喜ぶ遊びである。 赤ん坊は保護者の喪失による恐怖と、帰還による安心のギャップに快さを感じるという。 恐怖というのは快感の一種と言えるのかもしれない。
また、現実に疲れた人々を一時だけでも逃避させるファンタジーとしての機能をも保持しているようだ。 恐怖が程よい精神安定剤となって、いやな気分を麻痺させるのだろう。
怖い話の定番として、幽霊話がある。 私も、子供のころ大いに怖がったほうだ。 大人になった今も幽霊話は大好きで、霊はいると思うかどうかを聞かれたら、いるいないを論じるよりも、いてほしいとと答えるだろう。
大人になると、要求する怪談レベルが上がってくる。 面白い怪談というのは、良くできた話もよいのだが、よりリアルなやつがいい。 リアルというのは、現実特有の奇妙さ脈絡無さが語られた話のことを指す。 理に落ちる話は、どことなく作り話然としてしまうのだ。 現実の事件というのはもっと異様で、作り話のように話が整然としないもののはずだ。
怖い話研究を続けている内に、自分が探している話は、怖い話なのか、面白い話なのかわからなくなってきた。 怖い話と面白い話の両立は非常に難しいようだ。 もし、これはという話があったら是非聞かせてほしい。
お勧めのこわい本
双方とも怖いだけではなく、、作り話とは思えないような異様な話が楽しめます。
第三回
初出公開:1999/8/19 最終更新日:1999/8/19
近年のグローバリズム的社会の到来を最も支えたのは、インターネットに他ならないと思う。ネット最強の武器、コミュニケーション支援機能は、劇的に人の距離を近くした。例えば、日本からドイツの宿屋の宿泊予約を行うとする。インターネット以前の世界においては、まず自分の希望するレベルのホテルを探す時点でハードルがある。多分、旅行社を通してホテルを探すことになるだろうが、ある事を成すときに間接に関わる人を増やすということは、コストが増すということであり、欲しい情報に雑音が混ざる可能性が増えるということでもある。
インターネット導入後の世界ではホテル予約はほとんどの場合、インターネット上で完結する。ホテルサイトは外国人の宿泊も予想しているため、より普遍性の高い言語でナビゲーションされている。ということは、すでにドイツ語というローカル言語(失礼)で会話するという恐怖を回避できたということである。また、日本人にとって英会話すら恐怖だが、英文読解は多少得意な領域であるし、辞書を引きながら作業確認できるのなら、さらに恐怖感は減る。以上で、インターネットは、言語的なハードル、ホテル探しの苦労を減らさせたことが証明できた。このことで、ホテル予約作業に専門性は必要無くなり、結果として、コストも時間も削減された。しかし、これは一方でひとつの職業の滅亡を意味する。
ビジネス…というか人間関係の根幹というのは、情報交換の繰り返しでなりたっている。ビジネス技術は人間同士でおこなわれる何らかの取引をより安全に無駄なくすすめるために進化してきた。インターネットのコミュニケーション支援機能は情報の交換を容易とし、それどころか情報交換の必要回数すら減らし、その間の専門性の介在余地も同様に減らした。
専門性があるにしろ、無いにしろ、コミュニケーションを支援する職業は、社会に数多く存在している。これは逆を言えば、我々がいままでいかにコミニュケーションに苦労してきたかの証明でもある。ところが、今後それらの必要がなくなるというならばら、社会はこれから(すでに?)凄まじい変革を迫られるということである。しかも、インターネット系の技術はその性格ゆえにペースが非常にはやい。今後、どのような世界が到来するのかを考えることは恐怖であり…SF者にとって楽しみでもある。不謹慎かもしれないが。
第四回
初出公開:1999/8/19 最終更新日:1999/8/19
近年のグローバリズム的社会の到来を最も支えたのは、インターネットに他ならないと思う。ネット最強の武器、コミュニケーション支援機能は、劇的に人の距離を近くした。例えば、日本からドイツの宿屋の宿泊予約を行うとする。インターネット以前の世界においては、まず自分の希望するレベルのホテルを探す時点でハードルがある。多分、旅行社を通してホテルを探すことになるだろうが、ある事を成すときに間接に関わる人を増やすということは、コストが増すということであり、欲しい情報に雑音が混ざる可能性が増えるということでもある。
インターネット導入後の世界ではホテル予約はほとんどの場合、インターネット上で完結する。ホテルサイトは外国人の宿泊も予想しているため、より普遍性の高い言語でナビゲーションされている。ということは、すでにドイツ語というローカル言語(失礼)で会話するという恐怖を回避できたということである。また、日本人にとって英会話すら恐怖だが、英文読解は多少得意な領域であるし、辞書を引きながら作業確認できるのなら、さらに恐怖感は減る。以上で、インターネットは、言語的なハードル、ホテル探しの苦労を減らさせたことが証明できた。このことで、ホテル予約作業に専門性は必要無くなり、結果として、コストも時間も削減された。しかし、これは一方でひとつの職業の滅亡を意味する。
ビジネス…というか人間関係の根幹というのは、情報交換の繰り返しでなりたっている。ビジネス技術は人間同士でおこなわれる何らかの取引をより安全に無駄なくすすめるために進化してきた。インターネットのコミュニケーション支援機能は情報の交換を容易とし、それどころか情報交換の必要回数すら減らし、その間の専門性の介在余地も同様に減らした。
専門性があるにしろ、無いにしろ、コミュニケーションを支援する職業は、社会に数多く存在している。これは逆を言えば、我々がいままでいかにコミニュケーションに苦労してきたかの証明でもある。ところが、今後それらの必要がなくなるというならばら、社会はこれから(すでに?)凄まじい変革を迫られるということである。しかも、インターネット系の技術はその性格ゆえにペースが非常にはやい。今後、どのような世界が到来するのかを考えることは恐怖であり…SF者にとって楽しみでもある。不謹慎かもしれないが。
第五回
初出公開:1999/8/21、最終更新日:1999/8/21
有名な都市伝説のひとつに、幻の居酒屋とか幻の喫茶店とかいうのがある。どのような話かというと、たまたま通りかかった路地などに居酒屋(喫茶店)を見つけて、リラックスしたひとときを過ごす。そして幾日後か、再びその店へ行こうとするがどうしても見つけられない。店のあった路地すら見つけることができなくて不思議な気分を味わう。そう云えば、妙にマスターが無口だったとか妙に白っぽい店であったとかを思い出す。
これは、幽霊話の変形か、異次元空間に迷い込んだとかの話なんだろうが、実は私にもよく似た奇妙な記憶がある。私が小学生高学年くらいの頃、少年Jという少年漫画雑誌を毎週読んでいた。ある週に掲載された読み切りコミックを楽しみ、幾日か経ってもう一度読もうとするがそのコミックが見当たらない。おかしいと思って怪しいと思われる前後の号もすべて調べてみるのだがやはり発見できない。時間にまかせて他誌も調べてみるがみつからない。
これだけなら、ただの気のせいで終わるのだろうが、友人の家にあそびにいったときに驚く。「これこれこういう漫画を少年Jで読んだはずなのにもう一度読み返そうと思うと見当たらない。気のせいなのかな」友人が言っているコミックは、私にとっての幻のそれと同じものであった。二人は同じ勘違いをしていたのだろうか?もしかしたらよくある話なのだろうか?勘違いでなく、不思議な話であってほしいと思う今日このごろだ。