kowas
第三十一回
初出公開:1999/11/4 最終更新日:1999/11/4
アッピールは重要だ。自己主張という意味だが日本語的にはいい言葉ではない。わが国では奥ゆかしさが美徳だが、このリストラ時代にはそれも今は昔であろう。 さて、アッピールといえば、プロレス。プロレスといえばアッピールである。
プロレスラーは、お客さんに自分が何者かをしっかり伝えておく必要がある。自分の立場、キャラクター、現在のストーリーの流れをしっかりお客さんの頭の中に叩き込まなければならない。 アメリカでは、いま大プロレスブームなのだが、向こうでは「しゃべり」によるアッピールがうまくないとトップレスラーになれない。
その一方、日本では「しゃべり」アッピールが必須ではない。それでも、ほとんどのトップレスラーは「しゃべり」アッピール上手であり、その重要度は語るまでもないだろう。 アントニオ猪木が盛りを越えた頃、重要な試合を前にしてインタビュアーにこう聞かれた。
「負けたら引退ですか」
ここで猪木、目をカッと見開く。
「戦う前にまけること考えるやつがいるかよ」
と云うやインタビュアーに張り手!
これが有名な「東京ドーム張り手」である。
このわずかな間にテレビ視聴者へ緊迫感を見事に叩き込んでいる。流石というしかない。
その一方、アッピールがへたくそな人もいる。 「いつ、いかなるときも、誰とでもたたかう」 と常々アッピールしているアントニオ猪木に挑戦者が現れた。金網の鬼、ラッシャー木村である。
挑戦状をたたきつけたラッシャー木村は仲間を引き連れ試合場に現われた。試合後、猪木と睨みあいとなり、ラッシャー木村は、ついにマイクを掴む。ファンは激突前の前哨戦に身構えた。
「こんばんわ、ラッシャー木村です」
ラッシャー木村は強さより先に人の良さをアッピールしてしまった。 これが有名な「こんばんわラッシャー木村です事件」である。 アッピールは、TPOにくわえてセンスをすごく問われるので難しい。
九州ローカルに「世界のプロレス」という弱小団体がある。この団体のエースはコーラパワーズという、覆面のタッグチームである。タッグチームというからには二人組みなのだが、それぞれ「コーラキッド」「ペプシボーイ」という。版権はクリアしていないようだ。 中央の目が届かない地方だからこその存在である。
さて、この二人のインタビューが雑誌に載ったのだが、このアッピールが凄すぎである。
「俺達二人でシェア90%なんだよ!」
うーん、わけわからん。まいった!
第三十二回
初出公開:1999/11/9 最終更新日:1999/11/9
兵器の進歩というものは、さらなる破壊力、殺傷力、長射程性、命中性をもって語られる。戦争を肯定するものではないが、それはあたりまえのことだと思う。これは、家電やパソコンの進歩を語る時とロジックは変わらない。ところが現代においては、残酷すぎるとか、非人道的であるとかの理由で使用を自粛されたり、国際的に禁じ手とされる兵器が存在する。だいたい戦争そのものが非人道的なのに、その戦争に用いる兵器に人道が問われるとはナンセンス以外のなにものでもない。ところが、このナンセンスが要求されてしまうのが現実のおもしろさであろう。
現代においては、たとえ敵国の国民であろうとも、非戦闘員を殺傷することを国際世論は許さない。つまり、第2次世界大戦で日本が曝された、居住区への絨毯爆撃はありえないということだ。その近接区に重要な軍事施設が含まれようとも、一般市民が殺傷されれば、それはNGである。
これを踏まえて、理想の戦争を定義してみる。もちろん外交のステップで問題解決するのが最上なのであるが、戦闘が開始されたという条件で考える。また、湾岸戦争をリファレンスとする。
まず、自戦力を消耗しないまま、敵戦闘力(兵器)および軍事施設(基地、飛行場、レーダーサイト等)生産施設を完封する。さらに言えば、敵非戦闘員を傷つけず、戦闘員もなるべく傷つけないほうがよい。最優先は自軍が消耗しないことである。これを成し遂げるには、敵射程外からの砲撃および爆撃をおこなう必要がある。爆撃するには、制空権をとることが重要であるのは云うまでもない。
長い射程からの攻撃を成功するためには、兵器の射程距離をのばせばいい。ところが、それをやると命中率がさがるのは自明の理であろう。命中度の低さを解決するには、破壊力を増すか、やはり命中度を上げるしかない。破壊力を増すというのがどういう意味かというと、例えば原子爆弾を落としてしまえば、多少狙いをはずしても目標は沈黙するということだ。ところが、国際世論ではそれは大NGである。ということは、命中度を上げていくしか解決の方法がないということだ。
ここで生まれたのが、目標までひとりでに飛んでいく巡航ミサイルである。イラクの首都バクダットで戦闘中に居座っていたジャーナリストのレポートのなかで、ホテルの窓をあけるとミサイルが通りを飛んでいくのが見えた、というのがあった。。そんなタクシーのようなミサイルが存在することは技術的にはすごいことなのだろうが、ファンタジーとしか思えない。
しかも、そのような技術をもってしてすら、地図が古かったからとか、情報が間違っていたなどのローテクな理由で誤攻撃が起こるのだから油断ができない。まさにファンタジーである。先に述べた巡航ミサイルは、精密攻撃に優れている。しかし、この精密攻撃能力は本来要求される以上の能力であると言えないか。戦争とは、本来ルール無用の何でもありの闘いであったが、時代がすすむにつれ、スポーツにおけるルールのような約定が整備されるようになった。
ルールの複雑化は、プレイヤー(兵器)の特殊進化を生む。その結果、ナンセンスとしか思えない兵器が誕生したりする。しかし、いかにナンセンスでファンタジックな兵器であろうと、人を殺すための存在であることは変わらない。だが、それは見失われていくのだろう。戦争の司令官も戦況を見守る人々もファンタジーとリアルの違いを見失っているのかもしれない。
第三十三回
初出公開:1999/11/12 最終更新日:1999/11/12
「機動戦士ガンダム」は、ただのマンガで夢物語だって?
そんなこというなぁー!
男の子の「メカ好き」「軍事好き」は先天的なもの。特に、メカロボットは男の子のハートを限りなく熱くするのだ。
「ガンダム」をマンガだ、夢物語だと云っているうちに、自動車メーカーとして知られるホンダが、二足歩行ロボットを発表してしまったではないか!
二足歩行は犬ロボット「アイボ」の四足歩行と違い、非常に難しいといわれている。二足は非常に不安定なので、重心移動や足の間接制御には、大変なプログラム技術が投入されているという。これらは、現在のコンピュータ技術の進歩無しにはなしえなかっただろう。
さて、この人間型二足歩行ロボット、何のために開発されたのであろう。ホンダから、「一般の家庭でも使えるようなロボット」「階段の昇り降りなどの動作が必要」などのコンセプト説明がされているが、これは疑わしいと思う。 多分、開発者は「ガンダム」を作りたかったのだ。(断言) なぜなら、なにかの雑誌のインタビューでそのとおりの発言をしていらしたので間違いない。あなどりがたしガンダム!
とはいえ、この人型ロボットの身長は160センチ(P3タイプ)と非常に小柄で、ガンダムの全高18メートルには程遠い。実はこのような巨大ロボットは地球の重力環境下では、非現実的といわれているのだ。 しかし、これすらも人類の技術はいつか乗越えてしまうのだろう。 不謹慎だが、どこかの戦争でガンダムの子孫達が登場する日がくるのだろうか? でも、あんなでっかいロボットが現れた日には、でっかい射的と化して集中攻撃をうけてしまうのだろうなぁ。 なんて、みんなの夢を砕いたところで今回はおしまい。
第三十四回
初出公開:1999/11/17 最終更新日:1999/11/17
注意:ガンダム世代以外は意味不明かもしれません。
ノストラダムスの季節は過ぎ去った。しかし、ヨハネの黙示録とか、エドガーケイシーの予言とか、終末伝説のネタはまだストックがある。
人々の終末論好きには終わりがない。本当は人類滅亡を希望しているかのように。
ところで、「人類滅亡」は、実は凄く難しいことなんじゃないかと思う。
誤解を恐れず書くが、過去ドイツではホロコーストがあった。そこでは機械的合理性を追求された流れ作業のように殺人がおこなわれた。しかし民族は滅びなかった。日本には2発の核爆弾というスーパー兵器が落とされた。しかし日本は滅びなかった。
「人類の滅び」とは、上で述べた極異常事態をはるかに超えるなにかが起こらないと来ない未来である。
終末テーマを描いた映画、「アルマゲドン」での人類滅亡シュミレーションは、月ほどのサイズの巨大隕石が地球に激突するという設定によって行われた。
繰り返すが、それぐらいの荒唐無稽さがないと描けない未来なのだ。
運命の7月を前にした頃、私と友人の間でこの様な会話があった。
「来月はついに7月やね。恐怖の大王の正体ってやっぱりカッシーニかな?」
解説:ノストラダムス予言における人類滅亡の時期は1999年7月と云われていた。 カッシーニとは、アメリカの深宇宙探査機のこと。大型の原子力バッテリーを積んでいる。7月は地球の重力を使ってフライバイするため、地球に最接近する予定だった。
「うーん。確かに軌道コントロールに失敗して、地球に落下する可能性があるな」
「そうそう、それで地球中に放射能物質がまき散らされて、人類滅亡っていうシナリオや」
解説:これがノストラダムス・ビリーバーの最有力説であった。もちろん、友人はビリーバーではない。
「でも、たかだか探査衛星1個分の放射性物質くらいで人類滅亡するか?」
「・・・」
「人類は地球にコロニー落しされても滅亡せんねんで」
「本当にそうやな」(大笑)
その程度の話だ。人類滅亡を前提にしたテロや暴発は止めましょう。でも、滅亡もよかったかなと思ったりもする。人類破滅よりは、ね・・・
第三十五回
初出公開:1999/11/28、最終更新日:1999/11/28
1967年、WEEKLY漫画アクションが創刊された。そして、その創刊号から、泥棒を主人公としたあるマンガ作品が連載されるのである。
「ルパン3世」作者はモンキーパンチ。この奇妙なペンネームは海外でも名が通るようにと考えられたのだという。 「ルパン3世」は、ルブランの小説「アルセーヌルパン・シリーズ」をモチーフとしている。 その怪盗アルセーヌ・ルパンの孫(3代目)が現代を舞台に大活躍する物語である。
主人公は泥棒なのでジャンルは「悪漢もの」なのだが、犯罪描写よりむしろトリックを重視した仕立てである。 1969年、連載は終了するが、1971年TVシリーズ開始。この後の人気は語るまでもないだろう。連載開始から30年を超える長寿コンテンツになった。
今でも「ルパン3世」はたまに長編アニメとしてTV放映されたり、さきのWEEKLY漫画アクションでは、モンキーパンチの設定をもとに、別の作画者をたててリメイク版が連載中である。
ところが、もう全然おもしろくない。それは、私が年齢を重ねたからではない。なぜなら、かつて面白いと感じたコンテンツは、今でほとんど変わらないのだから。関わったスタッフの力量差といえばそれまでかもしれないが、それは違うだろう。
ルパンには泥棒という動かせない属性がある。この属性についての理解の相違にあるのではないか。 おそらく、私が面白いと感じたルパンが泥棒であるという意味は、彼がアウトローなのだということを読者(あるいは視聴者)に伝えるためにあるのだ。その証拠に、これらのルパンにはほとんど泥棒描写がないことに気付くはずだ。その逆にわたしが面白くないと断じたルパンは泥棒という属性に振り回されている。ぬすむ必要のないものを盗もうとして、魅力を失っているのだ。気障に云えば、ルパンが盗むべきは"謎"であって、札束でも金塊でも宝石でも絵画でもない。
もうひとつ云えるのは、泥棒というもののステータスの変化であろう。 昔は、泥棒とりわけ怪盗には夢があった。でも今はなくなってしまったと思う。 それは私を含めて、みんなが色々な現実を知ってしまったことにある。情報化社会だし。 例えば、札束を盗んだところで、その額が大きいほど、番号を控えられたりするだろうし、宝石や絵画を盗んだところで、だからどうなの?
ルパンに限らず、泥棒ものを現代で続けるには、金目のものより、もっと読者の意表をつくなにかを盗むしかないであろう。 そんなもの盗んでどうするの?というような・・・ 淡路島を盗むとかは?これではイリュージョンですな。