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第四十六回
初出公開:2000/2/4、最終更新日:2000/2/4
上岡竜太郎がラジオでしていた話。喫茶店のウエートレスとの会話。
「カフェオレください」
「カフェオレはやっておりません」
「コーヒーは、やってる?」
「やっております」
「ミルクは、やってる?」
「やってます」
「カフェオレください」
単に上岡竜太郎が嫌な奴だという話ではなく、企業努力についての話の中で出たので、ただのネタなのかもしれない。まあ、本当の話である可能性はたかいけど。実際、気の効いた喫茶店ならすぐ対応してしまいそうなので、この店の努力不足と思えなくもない。
最近はマニュアルを利用した運用が流行っているが、そのために柔軟な対応ができなくなったり、マニュアルの内容が悪くかったり、理想が高すぎて、実際の運用がガタガタで目標の顧客満足が最悪になったりするのは笑える。
ある土曜出勤の日、いつも郵便受けにチラシがはいってくる、ピザのデリバリーサービスを頼もうか、という話になった。それで電話をかけたのだが・・・(ピザのバリエーションはフィクションです)
「チキンピザと・・・」
「もうしわけございません。本日は、やっておりません」
「じゃあ、ステーキピザ」
「もうしわけございません。本日は、やっておりません」
「サーモンピザ」
「もうしわけございません。本日は、やっておりません」
「ないものはチラシにのせるなっていうか、なにがあるんや!」
その日、ピザを食べるのが中止になったのは云うまでもない。
もうひとつ。夜8時頃わたしと職場の先輩は、とある餃子を売り物にした某中華料理チェーンに行った。
「チャーハンください・・・」
「すみません。ご飯を切らしてしまって・・・」
「じゃあ、餃子ください」
「すいません、餃子も切らしてしまいまして」 凍りつく空気。わたしは店を出ようと先輩の方を見た。しかし、気の短い先輩はやすやすと切れてしまった。
「おまえの店が餃子を切らしたら、ただの将棋屋やんけー!」
わけのわからないツッコミに私は十分笑わせてもらった。
ごちそうさまでした。
第四十七回
初出公開:2000/2/10、最終更新日:2000/2/10
私が社会人となって実印をはじめて作ろうとしたときの事。東急ハンズに印章作成を請け負っているコーナーがあるのを知ったわたしは、なんとなく店を覗いてみた。
印鑑の材質というのは象牙がメジャーだが、象牙の使用が象の乱獲につながるなどの理由で、じわじわと手に入りにくくなったころの事で、その象牙製印鑑素材には酷く高価な値段がついていたと記憶している。
話を少し脱線させて、象の乱獲の話を少し続けてみる。昔「少年ケニヤ」のエピソードだったか、テレビランドの一行知識だったかわすれたが、こんな話があった。象は自分の寿命を感じると群れから離れ象の墓場に行ってしまうのだという。それは誰も知ることのない場所であり、たまたま発見することのできた幸運な人間は骨と化したたくさんの象の象牙を売ることで大金持ちになることがあるという。ただ後になって、象牙をとるために象の大虐殺をおこなった人がたくさんの象牙を手に入れた理由づけのためにつくった大嘘話であることを私は知った。これが御伽噺のような真実であって欲しいのだが、世の中の都合のいい話はほとんどが与太なのかもしれないという諦めもある。
話戻ります。私は象牙には興味がなかったので、他の素材になにがあるのかショーケースを覗き込んだのだが、そのなかに私のハートを強くとらえるものがあった。チタン合金である。チタンは素晴らしい硬度を誇る金属であり、加工の難しさまた、アルミと比べられるほどの軽さは非常に有名である。また、ジェット戦闘機のボディー、潜水艦の外殻などと非常にヘビーデューティーな性能が要求される部位で採用されていることはよく知られる。
チタン合金。なんと素晴らしい響きであろう。私はチタンの印鑑を購入した。潜水艦の船殻や戦闘機のボディーと私の印鑑は同じ素材で出来ている。私は、幸福感にひたった。
考えてみると、私が心引かれるケースにはこんなことがおおい。単純に性能面というより、ファンタジーを感じさせるようなイメージ力をもった製品であり素材であり、メカであり、キャッチコピー。
たとえば、ダイレクトドライブ。これは洗濯機のキャッチコピーである。いままでの洗濯機はモーターと洗濯槽はファンベルトで固定され間接的につながれ回転していた。ところがこの製品はモーターの薄型化により、直接洗濯層に直結可能となったのだ!従来と比べてどこがよくなったか。うまく説明できないが、なんとなくかっこイイと思いませんか?
ほかには「デュアルCPU」とか「PAM回路搭載」とか(エアコンを買った)「インバーター蛍光灯」とか(これも買った)「ジオメトリックエンジン」とか(意味不明だが格好イイー)
うーん。男性同士ならわかりあえるはずの話だと思うが、あなたはいかが?
第四十八回
初出公開:2000/2/20、最終更新日:2000/2/20
世界妖怪協会という団体がある。怪しげな名称だが、実はなかなか立派な組織である。予算はあまりないらしいが、参加メンバーが凄い。漫画家、水木しげるさん、小説家、荒俣宏さん、小説家、京極夏彦さん。宗教学者、中沢新一さんが名前を連ねる。
妖怪と云えば「ゲゲゲの鬼太郎」を連想する人が多いのではないだろうか。テレビアニメでは「ドラえもん」に匹敵する大衆向けコンテンツである。ところが原作漫画は、もともと出自が怪奇モノなので、不気味きわまりない怪作である。
妖怪はお化けや霊と混同される上、テレビアニメの影響もあって子供だましのイメージが強いが、実は文化人類学とか民族学に含まれるジャンルであり、もしかしたら、従来のそれらより妖怪学のほうが学術的なすそのが広いのではないかとも思える。民族学の名著「遠野物語」は妖怪学としても名著と呼んでいいのではないだろうか。
さて、人間は「わけのわからないモノ、現象、状況」に恐怖を感じるらしい。ところが、それに名前を付け、分類することで、「わからないモノ」が 「知っているモノ・・・」に変化する。その作用を利用して恐怖から逃れようとするのだ。
「小豆あらい」という妖怪がいる。水木しげるさんのイラストが強烈な印象となって、矮躯の老人のような姿の妖怪であると、思い込んでいる人が多いようだ。しかし、実は音だけの妖怪である。静寂な環境の中、どこからか、水の流れる音と小豆を研ぐ音が流れてくる。しかし、それを行ったはずの人間の姿はどこにも確認できない。この異常な現象につけられた名前が「小豆あらい」なのである。奇妙なことに、このような現象は、日本各地に見られ、地方によって特徴にバリエーションがある。ある地方では「小豆あらい」の性別が女だとの話がある。それは、その音をおいかけようとすると長い髪の毛がバッサーと家の壁にうちつけられるような音がするからだそうだ。類似した妖怪には「ぬりかべ」「すなかけ婆」などがある。
「河童」は、違う類の来歴がある。河童の特徴には、泳ぎが得意とか頭にさらがある、とか相撲を好むとかがある。さらに、河童が人間を手伝って、治水工事をおこなうといった伝説がある。古来、技術というものは恐怖の対象であった。例えば、江戸時代の人間にテレビなどを見せたなら、それは魔法としか認識しえず、恐怖の対象となるであろう。
さらに過去の世界では、治水の技術あるいは橋をかける技術などが恐怖の対象とされたという。これは、技術が妖怪化していくまでの流れである。技術の妖怪化はその技術を駆使する人間まで妖怪化する。
「河童」の正体は治水工事のために日本に招かれた渡来人の集団である、という説がある。泳ぎが得意とか相撲好きなどは彼ら渡来人の特徴を指しているに他ならない。頭の皿は、誤認や髪型がそんな風に見えたということなのだろう。
妖怪には一匹一匹に来歴があり、なぜそれが生まれたのかの推理は最高の娯楽というほかない。口裂け女、人面犬、トイレの花子さん。現代でも妖怪は滅んでいない。21世紀にはどんな妖怪が生まれるのか楽しみだ。
第四十九回
初出公開:2000/3/4、最終更新日:2000/3/4
SF映画のエポック「2001年宇宙の旅」で描かれる未来に, 私は違和感を覚えている。現代の延長にある未来の姿とは違うのではないかと。この映画はフィクションを描いているからあたりまえなのだけど、リアルさを追求した映画に対する言及なので、ヤボな突っ込みは無しで考えてみた。
さて、その違和感のありかは、この映画で描かれる世界観がひどく均一的であると思えたところにある。わたしは、これを共産主義的未来と名づけた。なにをもって共産主義的と呼ぶのかというと、ディテールに多様性がないことである。例えば、現代において”かばん”を表現するときにかばんの形状、色、以外にブランドが語られることだろう。つまり、機能性以外の部分での選択肢があるということだ。この選択肢の多さというのは、資本主義社会の特性である。 しかるに、あの「2001年・・・」の世界には、その選択肢の香りがしなかった。わたしは、このことに違和感をおぼえてたのである。
さて、もうひとつのSF映画のエポック「ブレードランナー」はどうであろうか。ここに描かれる未来世界には、多様性、選択肢の多すぎる、ごみごみした世界が描かれている。狂った資本主義というか、これは「2001年・・」のもつ清潔感とは対極の感覚だ。
いつしか時流れて、遥か未来だと思っていた時間がすぐそこにやってきた。今想像できる未来のありようはいかなるものなのか?「2001年宇宙の旅」では宇宙イコール未来だった。「ブレードランナー」ではハイテク資本主義。「JM」はネット資本主義。そして、未来を否定するたくさんの終末論が現われ・・・
新しい千年紀のはじめに語られるべき未来観とはどんなものなのだろう。私は、資本主義的未来はもう語られないと思う。資源を必要以上に食い尽くす資本主義は、これ以上人類を幸福のできないと思うからだ。かといって、いまさら共産主義的未来がくるとも思えない。 SFの次の仕事は、資本主義でも共産主義でもない、新しいシステムについて語ることなのかも知れない。
第五十回
初出公開:2000/3/10、最終更新日:2000/3/10
インテリアにこだわることがブームなのだそうだ。書店に行くとたくさんのインテリア関連雑誌があるし、雑貨を扱うショップはお客さんを集めることに成功している。
雑貨とは言っても、言葉の定義は昔とは変わってしまっている。昔、雑貨店に並んだ商品というのは、石鹸、洗剤、缶詰、保存食などであった。現代の雑貨店にならぶものは、食卓周辺の全てであり、ステーショナリーであり、お風呂周りであり、家具であり、もう、なんでもありといってもよい。カテゴリを定義するとすれば、生活を装飾するもの全てと言える。
さて、いままでインテリアを語るときに真っ先に話題となったものは家具だったと思う。ところが、インテリアブームにも関わらず、家具業界木工業界の斜陽は変わらないようだ。強いて云えば、大塚家具などの価格破壊を武器にした量販店の元気さが伝わるのみだ。
昭和30年代、高度成長期を迎えた日本。その頃、家具業界に"婚礼3点セット"という大発明があった。その3点というのは整理ダンス、和ダンス、洋服タンスをさす。この高価な婚礼3点セットは売れに売れたらしく、この時期が家具業界の最盛期だったという。婚礼という人生の一代イベントにお金を出し惜しむ人は少なかったということか。驚くべきことに、当時の金額で50万から100万の品物が売れ筋だったという。
ここまで家具が売れた理由のひとつには、当時の日本人がストックすることに飢えていたことがあったのではないかと思う。つまり、必要不必要関係なく家具を持つということ自体がステータスであり、満足のかたちであったのだ。 しかしもう、現代においての家具は雑貨でしかなくなった。生活環境を彩るデコレーションの一部だ。ゆえに安くないと売れない。
家具が我々にとって雑貨になったことで、かつて我が世の春を謳歌した家具店の数々は苦境にあえいでいる。ただ、わたしとしては工房家具の勃興、デザイン家具、そして雑貨家具の登場など、これからが面白いのだと感じている。家具ほど自分の理想に巡り合えない雑貨はないのだから。
最後に、インテリア風水について一言。わたしも風水には少し興味があって、色々調べたこともあるが、ドクター・○パの風水アドバイス。
「うどんやそばなどの長い食べ物は、長生きに効く」 それって風水か?