与太話 1999/8/30-1999/9/8

kowas


第六回

カオスは悪か

初出公開:1999/8/22、最終更新日:1999/8/22

カオス(混沌)という言葉は、悪い意味で使われることが多いような気がする。しかし、本当にそう言い切れるのだろうか。カオスの反語はコスモ(秩序)だが、わたしはこのコスモにこそ胡散臭さを感じる。コスモという考え方には、どこか弱者を否定するようななにかを感じるからだ。強きものを善とし、弱きものを悪として排除する。そんな考えかたが背景にあるような気がする。

強いものが生き残り、弱者が消えていくのは、そういうものだと思うけれども、弱者に生きる権利がないかというとそうとは思えない。私が考えるカオスの定義とは多様性であり、多様性を支えるマイノリティーである。さらに、私は多様性を善と捉えていると言い添える。強者も存在し、その一方弱者も存在してよい。またその他の属性のなにかも存在する。それがいい。

現代の日本人は秩序を好むかのようだが、過去にはカオスを信奉してきた。例えば八百万の神々。八百万の神々には善も悪もいて、そのどちらも崇める対象として認められている。なお云えば、神々に序列がほとんどない。これはキリスト教的な宗教観とは違った世界観だ。

話が脱線してしまった。社会は進化するほど均質化していくようだが、多様性を失うことは実は自分の首を締める行為ではないか。私には、インターネットが均質化を妨げる機能を持ちえると思える。インターネットは情報を流通させ世界の均質化を助けるようでいて、その情報流通の低コストゆえに選択可能なマイナー情報の発信と受信を簡単にしてくれる。

マスコミがインターネットを攻撃する理由は、かれらが同根で、かつ強力なライバルと認めるがゆえだろう。マスコミがインターネットを攻撃する糸口は、インターネットのカオティックな部分だが、インターネットはその存在がカオスであるがこそ、肯定されるのだと言いたい。しかも、マスコミはカオティックという点では同質だぜ。インターネットのオルタナティブ性は、マスコミの暴走への抑止力となりえるだろう。カオスも悪くないと証明できただろうか。


第七回

プロレスはインチキか?

1999/8/25、最終更新日:1999/8/25

自分がプロレスファンだというと、興味のない人から「あれって本気でやっているのか?」とか「八百長なんでしょう」とか聞かれる。それに対しての私の答えというのは、ファンだと言っている割にかなりいいかげんで不親切かも知れない。本気でやりあっているときもあれば、そうでないこともあるとか、八百長であり、そうでなくもありとか。わけわからないこんにゃく問答である。

なんだそれと思われるような話だが仕方ない。なぜなら真剣に理解してもらう為の話は長くなるし、しかも本気の答えはもっと不親切なものになる可能性が高いのだから。だいたい、先のような質問をするような人と、私のようなファンとの話は多分最初から食違っている。まず、プロレスがどのカテゴリーに所属するのかの認識からして違っている。プロレスを見ない人はプロレスをスポーツの一種と思っているらしい。それゆえにそれが本気がどうか、八百長かどうかが気になるのだろう。しかしそれは誤りだ。第一、プロレスは基本的に相手の攻撃を避けてはいけないのだ。我慢大会じゃあるまいし、そんなスポーツなどありえるはずがない。さらに詳しく述べると、避けることもできなくはないのだが、よりおもしろい状況をつくりださなければならないという条件が課せられる。それがルールなのだ。

プロ野球にプロレス的展開が導入されたら、どうなるかを例え話にこの件を説明してみる。9回表、3対1、2アウト満塁、ここで打てなくては9回裏を待たず勝負は決まってしまう。バッターボックスには4番バッター。さて、この状況で一番観客が興奮する次の出来事はなんだろうか?バッター三振?うーん。守備側のチームを応援しているファンは喜ぶだろうが…。答えは、「満塁ホームランで逆転。さらに9回裏に表と同じ位スリリングな状況になる」だ。こんな状況など現実にはほとんど起こりえない。しかし、プロレスでは日常茶飯事で発生する。プロレスの場合は、より観客がカタルシスを得る方向に、状況がコントロールされるのだ。

おお、「そこがインチキだ」という突っ込みが聞こえる。違うのだ。インチキでなくショーアップされているといってほしい。プロレスの興行論はシビアだ。つまり、常にお客さんを喜ばせ、リピータにしていかなければならない。それを、スポーツチックに現実のみを突きつけて観客をがっかりさせてどうするのか?プロレスはあっという間にパリーグ化してしまうだろう。客が集まらないプロスポーツなど存在価値がないのだ。

また、プロレスファンは、プロレスの内にファンタジーを見に行くのであって冷たいリアルを見にいっているのではない。くわえて、見所はファンタジーだけではないのだ。実は、プロレスにも勝負論がある。プロレスラーは観客をよろこばせてなお勝負に勝つという難しいテーマを背負っている。

プロレスとはスポーツ的な勝負論とエンターテイメントが絶妙なバランスで観客に提示されるショーだと私は思っている。ただ、興行団体や、マッチメークによって、スポーツとエンターテイメントのさじ加減がちがうので、プロレスファン以外の人は混乱し、敷居が高くなってしまうのだろう。私が言いたいのはインチキだから見ないというんではなくて、面白そうだから見るでいいのではないかということだ。そして、その結果で判断すればいい。

最後に、体重100キロを超える人が頭から叩きつけられるのを見て、インチキなんだから効いてないという感想をもつ人はどこか認識が壊れているとしかいえない。それが例えインチキだろうがなんだろうが、地球の重力は公平に作用しているのだ。


第八回

そのオチはまずいでしょう?

初出公開:1999/8/27、最終更新日: 1999/8/27

物語の一消費者として、おざなりな最終回ほどガッカリさせられることはない。長々と物語を楽しんできて、夢オチとか、宇宙人オチとか、爆発オチでははたまらない。一番驚かされたのは、昔、少年ジャンプという週刊漫画雑誌で連載されていた「ハイスクール奇面組」(「3年奇面組」より後に改題)という作品である。

主人公であるヒロインが変な先輩達と出会い、面白くも楽しい学園生活を送るといった学園コメディなのだが、最終回が最悪だった。確か5,6年は連載が続いていた後だと思う。ついに最終回、すべての楽しい出来事は、このような学園生活をこれから過したいというヒロインの妄想であった。これがオチである。

私の感想は「ここまでやってきてそれかい」であった。もしかしたら、読者の知り得ない編集者との確執などが原因なのかもしれないが、あんまりというものだろう。

他には、ファンである石川賢さんの作品に「極道兵器」がある。掲載誌が廃刊するという時にその事態は起こった。敵役であるマフィアと最後の決着をつけるべく大銃撃戦が行われるというクライマックスで、静止衛星軌道上に浮かぶ地上攻撃用レーザー兵器が暴走し、主人公と敵との銃撃戦の真っ只中にレーザーが撃ち込まれ、大爆発が起こったのである。

最後のページには大爆発の絵が描かれたのみであった。主人公がどうなったのかの説明はない。

同じ爆発オチでは、こういうのもある。邦題「俺はハマーだ」というアメリカのギャグドラマである。もちろんスピレーンのマイク・ハマーとは関係ない。主人公は刑事で、いつもハチャメチャな捜査で事件を解決している。

最終回、テロリストが国際会議場に時限核爆弾を仕掛け、主人公が解除に向かう。なんとか爆弾を解体していくと最後に赤と黒のコードが残った。どちらかが本物、もう一方がダミー、よくあるパターンだ。正しい方を切れば時限装置は解除されるが、間違うと爆発するというやつ。主人公ハマーは「俺にまかせろ」と言うや否やラジオペンチを片手に一方のコードをカットするが、ドカーン。核爆弾が爆発してしまう。

あまりの馬鹿馬鹿しさに私は不覚にも大爆笑してしまった。たまになら、こんなオチも許されるということなのかもしれない。消費者の感想というものは、いつも移り気で惨酷なものである。


第九回

なぜ幽霊が怖い

初出公開: 1999/8/28 最終更新日: 1999/8/28

幽霊や宇宙人に恐怖を覚える人は多いと思うが、この怖さがどこからでてくるのかを考えたことがある。基本的に恐怖というのは、自分の存在が脅かされたときに最も感じるのだと思う。"死"を想像させられたり、存在を否定される時に。

ただ、幽霊や宇宙人から感じる恐怖というのは、危害を与えられるかもしれないといった先に述べたものと同じような恐怖もある一方、それがすべてではない気がする。恐怖は、理解を絶する存在が目前に現れるところからも発生するのではないのか。 例えば

少し実例も挙げてみる。ある日、最終電車を降りた私は、家路を急いで駅を出た。そこで一人の女性が声を掛けてきて、自転車置き場まで一緒に行ってくれないかと言う。果たして、自転車置き場に到着すると、男性が一人何をするでもなく呆然と立ち尽くしている。女性によると、自転車に近づくと、寄ってくるのだという。 男はひょろっとした弱々しげな男だったが、異様な恐怖が自分の身の内を走ったのを覚えている。なぜ、そんなことをしなくてはいけないのか、全く理解できなかった。

どぉぉーですかお客さん。理解を絶する存在の登場が如何に怖いものか伝わったであろうか。上記の法則を適用すると、自分の目前の相手が理解を絶するほど恐怖が増すことになる。 すると、一番怖いのは幽霊になった宇宙人ストーカーだろうか。確かに尋常なく理解を絶する存在だ…。だがしかし、理解を絶しすぎて想像できない域まで達してしまったものは怖くないようだ。ということは逆に言えば、幽霊も宇宙人もどこかで理解できる存在だとでもいうのだろうか。


第十回

ジェダイ騎士の価値を問うな

初出公開: 1999/8/29 最終更新日: 1999/8/29

スターウォーズシリーズは正統SFファンから言わせていただくと、SFというよりファンタジーのカテゴリに区分されると思う。宇宙で繰り広げられる、剣(ライトセーバー)と魔法(フォース)の物語というわけだ。

未見の方の為に簡単なストーリー紹介をする。その時期、銀河宇宙は銀河共和国によって平和裏に統治されていた。しかし一方、後に帝国となる悪の集団が次第に勢力を強めつつあった。なお、銀河共和国は評議会によって運営されるが、その他に賢人会議ともいえるジェダイ騎士団が存在する。

ジェダイ騎士団には、ヨーダを頂点に12人のジェダイマスターがいる。ジェダイ騎士というのは、品格と強さを兼ね備えた魔法剣士のことである。ジェダイマスターはその中でも最高最強のメンバーということになろうか。

以上のような詳細が上映前にリリースされた時、わたしは「ははーん、少年ジャンプで良くあるパターンのぱくりか…」と思った。これは初代スターウォーズ公開時にジョージルーカスらが、日本の「機動戦士ガンダム」「宇宙戦艦ヤマト」などを参考にしたのは有名であるし、ディズニーの「ライオンキング」が手塚治虫の「ジャングル大帝」そのものだと話題になったのも記憶に新しい。

まあ、遣りかねないと思ったわけである。もちろん、逆のケースも多いだろうし、「ライオンキング」のような露骨すぎるものを除けば多少のパクリはOKとは思っている。

これを踏まえて、エピソード1のストーリーは以下のようになるだろうと予想した。敵にも暗黒ジェダイ12人衆とかいうのが現れて、本物のジェダイ騎士とんち合戦かと思えるような戦いを繰り広げる。12人中とりわけ最強といわれる5人くらいが何故か敵に寝返り、ひとりまたひとりとジェダイ騎士が殺される。他には、ヨーダはすでによぼよぼなのだが、実は異常なまでに強かったとかいうのもアリな展開だろう。

だが、結果的にこんなストーリーは一切なく、いつも通り地味なストーリーだったと言っておく。ただ、ひとつだけ気になったことがあった。ジェダイマスターには、最強のメンバーが集っているはずなんだが、その中にろくろ首みたいなやつがいて、すごい弱そうだった。どう考えても首は弱点だろう。もしかしたら、裏切ったジェダイに真っ先に殺される役目をもっているのかもなんて考えたりする。そういえば、少年ジャンプでもよく見る光景だ。エピソード2が楽しみだ。